杉岡幸徳の著作

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ゴッホと痴漢

cafeterace
先日、東京のゴッホ展を見に行った。
いや、正確には「見に行こうとした」のだが。

とにかくとんでもない人波で、まともに見ることができないのだ。
東京駅から美術館まで無料バスが出ていた。このバスが超満員で、30分待ち。
美術館に着くと、そこには長蛇の列が……。入館するのに1時間待ち。
中に入っても、人ごみでとてもまともに見れやしない。
僕は、目玉の「夜のカフェテラス」がどこにあるのかもわからないまま、帰っていった。

ヴァン・ゴッホ(正しくはホーホという風に発音するらしいが)は、完全にアマチュアの芸術家だった。
ゴッホの絵で、生前に売れたのは、たったの一枚である。それも、今の日本円にして数千円程度の、ゴミのような扱いだった。

確実に言えることは、このゴッホ展に訪れた数十万人の人たちは、もしゴッホと同時代に生きていたら、絶対にゴッホの絵など買わなかっただろう、ということだ。
この世にはこんなに俗物がいたのか……。生前誰からも理解されなかったゴッホの作品に群がる人々を見て、僕はおののいていた。
あの時、俗物でなかったのは、僕くらいなものだっただろう。

後で聞いたのだが、あまりの人ごみで、「痴漢」が出るくらいの盛況ぶりだったらしい。
僕はこの話を聞いて、しばし感慨に耽っていた。

あの時、ゴッホを正しく理解していたのは、この「痴漢」くらいなものだったのかもしれない。
痴漢は、人の群がる絵、高名な絵、高額な絵などには、何一つ関心を示さなかった。
ただ、目の前の肉体だけに反応したのである。

これこそ芸術家の魂であり、権威や名声などには目もくれず、ただ自分の感性に反応したものだけを追い求めていく……。これが芸術家の生き方であり、精神なのである。

そしてこの痴漢こそ、ゴッホの精神を正しく継承する者であり、芸術の未来を切り開く者ではないだろうか。


ゴッホの魂は、痴漢の中に生き続けている。

ヨガを始める

突然だが、ヨガを始めた。深い意味はないんだけど。

僕の行っている教室では、初めと最後に正座し、「合掌」をする。
そしてこのポーズが、体の中心(丹田?)に力をこめる、極めて合理的なポーズであることに気がつく。

この合掌(タイ語でいう「ワイ」)は、東南アジアでは日常的に行われている挨拶の動作だ。
そしてこれが、実はキリスト教徒が胸で十字架を切る動作にも似ていることにも気づく。

キリスト教徒は、十字架を切ることによって、自分の体内の中心を指し示し、確認をしているのである。
この単純な動作において、西洋と東洋は意外に近い……そんなことを考えていた。

「サイゾー」にかなまら祭りのルポを掲載

今日発売の月刊誌「サイゾー」に、日本最高の奇祭・かなまら祭りのルポを掲載させていただきました。

ニューハーフのお姉さんが、ピンクの巨大な男根型の神輿を、「でっかいまら、かなまら!」と叫びながら担いでいくという、信じがたい祭り。
「ウタマロ・フェスティバル」と呼ばれ、全世界からゲイが集まってくる国際的な奇祭です。
ぜひご覧ください。

一度書いた本は死なない

一度書いた本は決して死なず、いつまでも付きまとってくるようだ。
死んでしまうような本は、それは初めから「本」ではなかったのである。

僕が2000年に出した『ゲオルク・トラークル、詩人の誕生』について、ある高名な作家の編集者から連絡があり、僕がこの本の中で訳した、トラークルの詩を引用させてほしい、という要請が来た。

トラークルの詩は、いろんな人が訳している。その中には、有名な大学の教授もいっぱいいる。
その中で、あえて僕の訳を使ってくださる作家さんに感謝したい。

この『トラークル』はカルト的な人気のある本で、この本の熱烈な支持者はけっこういる。
どういうわけか訳の評価も高いようで、
「あなたが訳したトラークル全集を読みたい。あなたしかできません」
という熱烈なメッセージをもらったこともある。

『トラークル』が出てから5年。
この本が本当に評価されるのは、これからかも知れない。
前にも書いたが、この本は、出てくるのが100年早すぎたのである。
当時の大学教授が、何一つ理解できなかったのも無理はない。

俺の人生を指定しないでくれ

ゴールデンウィークの終盤、大阪から東京までの新幹線のキップを買う。
指定席は、案の定、ほとんどが満席だ。
特に僕は指定席にいろいろ条件をつけるので(禁煙にしろとか、三連席の通路側がいいとか)、さらに席は見つからない。

「三時間後の、三連席の真ん中なら取れますが……」とみどりの窓口の係員は言う。
しかし、僕は閉所恐怖症なので、真ん中に挟まれるのが嫌なのである。
ここで指定席には見切りをつけ、自由席の券を買って、一か八か新幹線に乗り込むことにした。

しかし乗ってみて、驚いた。
自由席には、結構な空席があるのである。
僕の好きな、禁煙で三連席の通路側という席も簡単に見つかった。
荷物を置き、ほっと一息をつく。

それにしても、「指定席」というものは、何のためにあるんだろう。
自由席よりも高くて、しかも自由席よりも混んでいるのである。

しかも指定席には「指定席の法則」というものがあって、隣に偶然絶世の美女が座り、会話が弾み、ひと時のアバンチュールを楽しめる、なんてことは決してない。

隣に座るのはたいてい「おっさん」で、バリバリ音をいわせながら新聞を読み、けたたましく携帯電話で話をし、仕舞いにはいびきをかいて寝込んでしまう。
あるいは「おばはんたち」が集団で乗りこんできて、「よっちゃんよっちゃん、ミカンこうてきたで!はよ食べんかいな!」などと宴会状態で、うるさくてたまらない。
しかし自由席なら、こういう悪魔のような人々を避けて、席を取ることが可能になるのである。

世の中には二種類の人間がいる。
指定席を取りたがる人と、取りたがらない人だ(なんでもそうか)。

僕は、圧倒的に「取りたがらない人」だ。
列車の席を指定するのは、自分ではない。
それは、鉄道会社の係員や、コンピューターが決めるのだ。
そういう訳のわからない他者に、大げさに言えば自分の未来や運命をゆだねてしまっていいのだろうか。

僕はそれがいやだ。
だからたいてい自由席を取り、その上で好みの席を探すのである。
美女とのアバンチュールは実現しないかもしれないが、それでもいい。それは自分で決めたことだから、少なくとも納得はできるのである。


俺の人生を指定しないでくれ。
俺の運命を、勝手にいじくらないでくれ。

怪しい「自己啓発」

前からずっと思っていたのだけど、「自己啓発」というものほど、いかがわしいものはない。

大きな書店に行くと、たいてい「自己啓発コーナー」が設置されていて、背広姿の男が熱心に本を立ち読みしているのをよく見かける。
それほど、「啓発されたい!」と思う人が多いのだろうか。

言うまでもなく、「自己啓発」というのは言葉の矛盾である。
自分で書いた本を自分で読んで、勝手に啓発されていたら、それはまさしく「自己啓発」だろう。

しかし、ほとんどの人は、他人が書いた本を読んで、「啓発」されているのである。
これ、「自己啓発」と言えるのだろうか。

これは、はっきり言ってしまえば、「洗脳」と同じじゃないか。
本当に洗脳されると、自分の意思と他人の意思の区別もつかなくなるようだ。
恐ろしい。

自己啓発セミナーや本の繁盛ぶりは、人々がいかに洗脳されたがっていて、自由を失いたがっているかの証明である。
「人間は生まれながらにして自由を求める」というのは大嘘である。
多くの人にとって、自由とは厄介なもので、わずか数千円ほどで売り飛ばしたくなるものなのだ。

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